今回初めて訪れた酒田大会。酒田は言わずと知れたアランマーレ山形のお膝元(正しくは、親会社のプレステージ・インターナショナルの山形BPOがあるのが酒田市)です。昨年の鶴岡大会で初めて庄内地方を訪れ、酒田も寄ったのですがそのときは滞在時間もわずかだったので、今回は酒田に泊まること、も目当てでした(前乗りする気合の入れようです)。
ホームゲームの感想はこちらに書きましたが、
試合以外で、酒田で時間を過ごした中で感じたこともいろいろありましたので町の紹介そしてアランマーレ山形の現状と今後、と合わせて酒田の過去、現在、未来としてご紹介します。
まず皆さんにお聞きします。酒田ってどこにあるかご存じですか?
過去:最後まで抵抗した庄内藩
私自身が酒田・鶴岡のある庄内地方を知ったきっかけは比較的最近で、戊辰戦争の歴史にふれたとき。新政府軍と互角の戦いをしたといえば長岡藩が真っ先に浮かんだのですが、庄内藩は侵攻すら許さず最後まで抵抗した、と。でもそのときは庄内と言われてもビンとこなくて、長岡の近くだと思っていたんですね。なので山形県とは思わず。私自身も数年前までそんなレベルでした。酒田はわかりやすく説明すれば、秋田と新潟の間の日本海側にある町、です(とはいえ中間というわけではなく、秋田寄りです)。
ただ、山形と聞いて普通の人が思い浮かべるのは山形市などのいわゆる内陸部。酒田は沿岸なんですよね。最上川の河口があるため、米などの山形の産物が川を使って運ばれ、そして酒田の港から北前船で出荷された…。実は昔から酒田は重要拠点だったわけです。江戸時代に治めていたのが徳川四天王の一人だった酒井家、ということでもその重要度がお分かりいただけるかと思います。町を歩けば、山居倉庫など当時の名残があちこちに残っています。
酒田の歴史の話をするだけで記事が終わってしまうので極力手短にしますが、戊辰戦争で最後まで抵抗できたのは、最新鋭の武器を揃えられる財力が酒田にあったこと(もっと言えば本間家)、そして領主が領民に慕われていたので一丸となれたこと、ということが大きいわけです。そして戊辰戦争が終わった後も、最後まで抵抗した割には庄内藩は他藩に比べ寛大な処分(石高を少し減らされた)で済んで、それを指示した西郷隆盛と領民たちと間に交流ができた(藩士を鹿児島に留学させた等々)、なんてエピソードもあります。
そのエピソードに触れられる南洲神社、一度行ってみたかったのですが何のことはない、INPEX酒田アリーナのすぐ近くだったので試合前に行ってきました。
あと、北前船の寄港地だったということは結果的に京など上方との交流もあったわけで、その名残で舞娘茶屋なんてものも酒田にあります。いや、ありますというより残されています。酒田は北前船によって文化の交流拠点でもあったわけですね。
そんな庄内藩を形成した庄内地方は、この酒田市と鶴岡市の二市と三町から成り立っています。人口9.5万の酒田は港湾都市で、11.5万の鶴岡は元々城もあったことで政治・経済の都市。庄内を構成する二都市を分別するとこのようになるでしょうか。ちなみにこの二都市の中心部は車で30分ほど。バレオタなら富山市と黒部市、金沢市とかほく市の距離感をイメージしていただけるとわかりやすいかと思います。
とはいえ、山形県ではありながら山形というイメージを持つ人は少ないのでは…と思います。最上川流域という共通点こそありつつも、酒田は山形市よりは秋田市の方が近く、また山形市とも鉄道はおろか、高速道路もつながっていない状態で、文化も少し異なるんですね。例えばさくらんぼは内陸部であって酒田の名物ではありませんし、芋煮も具材などが異なるんです。
さて、ここまで庄内を過去とあわせて簡単に説明しましたが、ここからは庄内、酒田を取り巻く今、の話です。いずれにしても、独特の文化圏を形成している地域だ、ということはお分かりいただけたのではと思います。